きんのあさ

菌と麻に秘められた可能性を探っていきます。どこまでも。

酵素風呂を通して学んだこと〜自立型の人間として生きる〜

そういえば、こないだの断食は2日間の後、つい食べてしまい断念でした。習慣の恐ろしさ。

でも、1日1食生活がなじみ、身も心も軽やかになった気がしています。

また機を見てやってみようと思いますー。

 

 

さて最近、自立と依存について考えさせられる出来事がよく起こります。

 

ちょっとまとめてみると、

 

自立型とは、

・人生の選択を自分でする

・自ら率先して動く

・自分が責任を負う

・自分を変えることをいとわない

・まず自分でやってみる

 

依存型とは、

・人生の大半を外部によって影響される

・他人の指示を受けて動く

・何か起きると他人のせいにする

・環境が変わるのを待つ

・すぐ人に助けてもらおうとする

 

ざっと思いつくところでこのくらいでしょうか。

 

2年半前から酵素風呂に携わることになり、日本やタイで多くの人と関わる機会を持つようになりましたが、病気が治った人の多くは自立型に当てはまるなーと感じてます。

 

もはや、法則といっていいかも?

 

 

酵素風呂を通して伝えたい理念は「自分で自分を治す」です。

酵素風呂が治すのではないんです。ここめちゃくちゃ重要!

 

酵素風呂に治してもらおう、と思って入るのか、それとも自分の身体の働きを高めようと思って入るのか。

 

行為自体に違いはなくても、意識の世界では天と地ほどの差があります。

 

それに、酵素風呂に入っている時間はたかが20分程度なので、本当に大事なのは日常(瞬間瞬間)をどういう意識で過ごすかです。

 

酵素風呂を運営する立場の人間としても、「酵素風呂に入れば病気が治る」なんていう言葉は軽々しく言えませんね。それは、利用する人を酵素風呂に依存させることにつながりかねない。

 

もちろん酵素風呂の持つ可能性を世間にあまねく知って欲しい気持ちはあるけど、酵素風呂はあくまで手段のひとつにしか過ぎない。惜しみなく与えるけど、強制はしない。そんなスタンスでやってます。

 

 

まあ、見えない世界のことを見えるように、また、言葉を使って伝えていくのは暗中模索感満載ですが、発信して初めて変化が生まれるので、地道に細々とやっていきます。 

 

かくいう僕自身も修行中の身なので、こうやって文章書いてる時間は自分自身を見つめ直す時間でもありますねー。

 

酵素風呂を通じて学んだことはまだまだあるので、ちょこちょこ書き出していきます。

 

自分の人生は自分で切り開いていきましょー。

 

あ、今「でも」っていう言葉が浮かんだ人は「依存型人間」かも?笑

酵素風呂で子猫が瀕死から生還?

つい先月から子猫3匹との暮らしを始めていました。最初は怯えてタンスの裏に隠れたりとお決まりの警戒心を発動されていましたが、1週間もすれば僕のことなど気にもせず3匹で追いかけっこをする慣れっぷり。

 

そんな順風満帆な子猫との暮らしに突然変化が起きたのは先週の日曜日のこと。1匹が失踪し、そのまま帰ってこなくなり、その3日後にもう1匹が体調を崩し、医者に連れて行くことも何もできず一晩のうちに逝ってしまいました。

 

残る1匹のらむ(オス)は元気そうにしていたので安心していたら、木曜日の朝からやはり後を追うように体調を崩し始め、白目を剥き、触ってみるとかなり身体が冷たい。

 

これはとにかく温めるしかない!と、たらいに移した米糠酵素に首から下を埋めました。1時間経つ頃には少し身体が温まってきていたものの米糠酵素が熱すぎるのか辛そうだったので、カゴに入れて酵素風呂の上に置くことに。様子を見に行くたびに呼吸が穏やかに、力強くなっていたのでなんとかがんばれーと念じていたら夕方にはすっかり回復。水も飲めるし、ご飯も食べられる。普通に歩くこともできる。体温も元通りになりました。

 

それからはすっかり元気にやんちゃをしていて、強い免疫を獲得してくれたかなーと思ってます。これからも週に1回は酵素風呂に入れて、たくましく育ていってほしいものです。

 

f:id:htm3110:20170724131253j:image

呑気に小顔ポーズを決めて昼寝するらむ。

断食スタート

この2週間ほど、食事を始めとしてたらふくインプットしたのでここらで一度強制的にアウトプットをしようと思い、それならばとわかりやすい断食をすることにしました。

 

目標はとりあえず1週間で、心身の変化をつぶさに観察してみます。あわよくば宿便も出したいところですね。コーヒー浣腸は効くと聞きました。チェンマイにいるからにはいつかチネイザンもやってみたい。

 

食生活に対する意識の変化は健康を保つ上でかなーり大事ですし、少食(究極には不食)が世界を救うと確信している身ではありますが、こびりついている習慣にてこ入れするのは難しくもあります。

 

なのでまずは自ら人体実験して、その結果を良い面も悪い面もバランス良く伝えていこうと思います!自分で体験したことには自ずと説得力が乗っかりますしねー。

 

では、1週間後に報告します!

チェンマイ生活始まりました。

2年ぶり5本目のブログです。ひたすら溜め込んできたものを少しずつこれから吐き出していこうと思います。

 

この2年間で何を成し遂げてきたかと問えば、うーん、、、と唸るばかりですが、それもこれも、これから起きる何らかの出来事の布石として捉えることにしました。

 

 

さて、最近の日々の暮らしはどうかというと、チェンマイにひっそりと、小ぢんまりと酵素風呂をつくり、そのお世話に勤しんでます。

 

f:id:htm3110:20170713123950j:image

 

f:id:htm3110:20170713124013j:image

 ※僕ではありません。プリミティブかつ最先端な酵素風呂の埋まり方。目の疲れが良くとれます。

 

与えれば返ってくる、というシンプルな法則が微生物の世界には常識としてあるようで、心を込めてお世話をすればするほど調子が良くなり、ほぼ毎朝セルフ酵素風呂で至福のひとときを味わってます。

 

本当にもう最高!の一言なんですが、包まれてる感覚やどばっと出る汗、入酵後の心地良い倦怠感などは体験した人にしかわかりません。ぜひとも多くの人に埋まってもらいたいですね〜。

 

 

そしてそして、まだ下半期に突入したばかりでありながら今年最大のハイライトとも言える、うさぶろうさんとの再会。

 

f:id:htm3110:20170713124355j:image

 

場の落ち着いた雰囲気、細やかな心配り、日々の暮らしの丁寧さ、そして瞬間を大切に生きること。

 

何から何まで感動でしたが、超一流の世界に触れたことで人生の大きな指針がひとつ加わりました。

 

心地良い空間をつくる。うさとの服を華麗に着こなす。衣食住のすべてを整える。などなど。

 

「くらしとしごと」との向き合い方を見つめ直す、この上ない機会にもなりました。くらしとしごとは元をたどれば分け隔てられてなかったはずで、誰もが自分の『好き』を生きる糧にできる世の中の実現、望まれますねー。

 

そんなこんなで、自らを実験台にしつつ、これからは足取り軽く、心も軽く生きていこうと思います。

不食が世界を変える-「食べない人たち」を読んで

前回の記事で触れた「食べない人たち」という本ですが改めて読み直してみると「こ、これは全世界必読の本だ!」という気持ちがむくむくしてきたので勝手に紹介です。引用多めでいきます。

食べない人たち (「不食」が人を健康にする)

食べない人たち (「不食」が人を健康にする)

 

 まず、第一文から世界にぐいっと引き込まれました。

  本書は「不食」について書かれた本ですが、単に体験談を集めたものではありません。ましてや、興味本位に書かれた本でもありません。その目的は、誰でも不食ができるように、そのテクニックを具体的に教えること。いわば、不食の上級者用の教科書なのです。

「誰でも不食ができるように」と書いてあります。ほんまかいな、という疑問がちらつきますが先に進みましょう。

不食とは聞き慣れない言葉ですが、断食との違いも明確に表現されています。断食はあくまで食べることがベースで、不食は食べない生活がずっと続く。死なないの?と思います。

不食とは、「物質的な食物を摂取しなくても、人は生存できる」ということを証明するための生き方といってもよいでしょう。よく比較される「断食」には、そうした考え方はありません。断食では一時的に食物の摂取を断ちますが、その期間が過ぎれば元の食生活に戻っていきます。それに対して、食べない生活を習慣としてずっと続けるのが不食です。

そんな読者の疑問をよそに不食のすばらしさが語られていきます。

不食とは、食べるのをがまんすることではありません。食べないほうが、心と体にとってどれだけらくで、どれだけ多くの幸福をもたらすかを知ることなのです。

不食があなたを自由な世界へと導きます。健康になります。若返ります。もういやな仕事はしなくてよくなります。悩みが消えていきます。本当の平安が手に入ります。もう何も気にしなくてよいのです。

「不食は三日やったらやめられない」
私は改めてそう思いました。私にとって、不食ほど、らくに生きる道はほかにはありません。
文字だけ追っていくと、「これほど絶賛するなら、ちょっとやってみようかな」と徐々に考えが変わってきました。もういやな仕事はしなくてよくなります、とは魔法の言葉。
強い否定の感情はひっくり返って肯定の結果を引き寄せます。不食の道も同様で食べないということを強く意識しすぎると、飢餓感が余計に強くなってしまうと述べられています。
完全に食べないことを目標にすると、不食への道は容易ではなくなります。食べないということを強く意識しすぎると、飢餓感が余計に強くなるからです。そういうときは、むしろ不食ではなく、少食(一日一食)をめざしたほうがよいと思います。不食への近道は「一日一食」にあるのです。
つまり、不食で大切なのは、食べないことを目標にするのではなく、食べないことに体を徐々に慣らしていくこと。不食では本来、強い飢餓感に悩むことはありません。むしろ、食べないことが気持ちよく感じられるのが不食です。

 現代科学でいくら突き詰めてもわかりっこないのが不食でしょう。こればかりは、やってみるしかない。やった人にしかわからない世界であるといえます。

「どうして、そんなことができるのか。栄養学の常識では絶対にありえないことだ。」
理屈がいっぱい頭につまった人は、すぐにそう考えます。
不食が可能かどうかは、頭ではなく体が教えてくれます。これは知識ではなく、実際に試さないとわからない感覚の世界です。
問題を問題視しないことで不食への道が開けると。これは名言ですね。

なぜ不食ができるのかを考えたら、またわからなくなります。栄養学であれこれ考えると、さらにむずかしいでしょう。つまり、不食を問題視する人には、不食はわからないのです。問題視をしない、あるいは問題視をすることをやめた人なら、不食への道に入っていくことができるでしょう。これは事実であって、頭の中の抽象的な理屈ではありません。

  事実はあくまで中立なものであって、その事実を「問題」=ネガティブと決めつけるのはあなたの頭ですよ、ということでしょうか。

すべては思い込みです。問題はあると思えばあるし、ないと思えばないのです。難解な禅問答をしているわけではありません。事実をいっているだけです。思い込みから自由になれば、問題は初めから存在しないことに気がつくのです。  

いい悪いの判断をしなければ、そもそも争いは生じません。善悪という前提に立てば対立が生まれますが、善悪はないのだという立場に立てば、初めからそこには何もないのです。そこは、ニュートラル(対立する二つのいずれにも属さない状態)な世界、ゼロの世界、いい方を変えると「調和」があるだけです。このゼロの世界で暮らせるようになること。それが、不食がもたらす最大のプレゼントなのです。

寝食を忘れるほど夢中になれる仕事や趣味を持っている人は、知ってか知らずか不食の世界に入りこんでいる瞬間を体験しているのでしょう。 

「不食とはどんな状態か」ときかれると、私は次のように答えます。
「ずっと楽しんでいる状態です」
子供が楽しいことを一生懸命していると、食べることも寝ることも忘れて没頭することがあります。まさにその状態が不食なのです。

 以下は、森美智代さんの言葉です。テレビの取材が来るよーと発言したらそのとおりになったり、ニューヨークに行きたいなぁとぽろっと漏らしたらニューヨークでの講演会の話が舞い込んできたと本書で語っています。

不食をしていると、心がシンプルになります。断捨離も同じです。そうすると、願い事がかないやすくなるようです。もっとも、あまり願い事がかないすぎても、忙しくなって困るので、最近は何も願わないようにしています。

今まであえて考えることはありませんでしたが、「食事とは、ヒマをつぶすための最高の手段」との指摘はまさにその通りですね。つまり、不食を達成するためには何よりも没頭できる仕事や趣味を見つけることから始めよう、ということですよねー。

ヒマな人は食事の回数をへらすのがたいへんです。食事の回数をへらすと、ますますヒマになってしまうからです。つまり、食事とは、ヒマをつぶすための最高の手段なのです。
したがって、ヒマを持て余している人が最初にすべきことは、食事の回数をへらすことより、まず趣味を見つけたり仕事をしたり、あるいはボランティアに参加したりするなど、忙しく頭や体を使うようにすることです。そうすると、食事の回数も自然にへらすことができます。

 こちらも森さんの文章です。ちょっと強烈な文章なので、判断は読む方に任せますがあえて引用します。もとをたどってたどってたどっていけばすべてはひとつにつながっているのかも。

みんな途中の人で、いずれは神様になる立派な魂です。少し待っていれば、みんな偉くなるのです。それがわかると、もう人に腹を立てることはなくなります。
しかも、目には見えませんが、私のそばにはいつも神様がいて、私を温かく見守っていてくださるのがわかります。そんな幸運に恵まれた私が、どうして人のことで腹を立てたりできるでしょうか。
もちろん、この幸運は私だけのものではありません。みんな幸運の人たちです。なぜなら、みんな神様になる途中の人だからです。最近、私たちのような少食・不食の人がふえてきたのも、神様になる練習をみんなでしているためかもしれません。
 「不食」という言葉を生み出した山田鷹夫さんの言葉を長々と引用して終わりにします。この文章に全てが詰まっていると感じます。
私が微食をするのには、二つの理由があります。
不食の探求を続けているうちに、「どうしても食べない」というこだわりが薄くなったからです。不食を追及すればするほど、食べても食べなくてもよいではないか、という心境になりました。
もう一つは、ヒマを持て余してしまうからです。(本当に不食はヒマで困ります)。その結果、精神がそう快でないとき、それをごまかすためについ食べてしまうのです。悪循環に陥ることはよくわかっているのですが、人間は理屈どおりにはいきません。
しかし、そうした失敗をくり返しながら、ハッキリとわかったのは、心と体が透明であれば、食欲がわいてこないということ。心と体がにごっていると、そのにごりが食欲となって現れてきます。不食の人は澄んでいます。体もとても美しいです。不食をめざすと、二十歳の体に戻ります。
要するに、不食とは「慣れ」です。
不食とは、慣れです。体が食べないことに徐々に慣れた結果、あるいはそれに適応した結果、心と体が到達する最終的な状態です。ただし、この状態に到達するには、「人は食べなければ生きられない」という古い意識をどこかで打ち破る必要があります。不食で最も大切なのは、意識の転換であり、意識の飛躍なのです。
そのためには、もともと精神の柔軟な人のほうが有利かもしれません。古い意識をがんこに守り続ける人は不食を否定する気持ちが強いために、それを試す以前に「バカバカしい」のひとことで片づけてしまうでしょう。
 最高にうれしいのは、不食の実験をするうちに、悩みが少なくなっていくこと。悩みとは、頭の中であれこれ考えることです。その証拠に、考えるのをやめればどんな悩みもたちどころに消失します。少食・不食を実行すると、自然に考えることが少なくなり、それと平行して、悩みもへっていきます。そして、ある日突然、「あれ、悩みってなんだっけ?」となるのです。